泰西名画模写画とオリジナル絵画、コレクションの作品紹介

10年以上続けてきたヤフーブログから移行してきました。 画家になりたいという、若い頃からの夢をかなえたくて、独学で模写から勉強しています。 また、好きな人物画を主に、有名無名を問わず気に入った絵画収集にも努めています。 他にも日々お出かけの日常などを紹介しています。

その他芸術、アート

金子國義

久しぶりに「好きな画家たち」を投稿いたします。

昨日本屋で、「金子國義の世界」という本を手にして、買ってきました。

「一度見たら忘れられない程、インパクトの強い絵は素敵な作品」と自称定義している私にとって、久しぶりに若いころのムラムラが戻ってきて、何故か新鮮な気持ちで購入しました。

彼に魅かれる一つに、金子さんの室内空間。見事な照明演出と蒐集品の配置に、日頃青白い蛍光灯の眩しい居住空間でしか生活していない私にとっては、あこがれの居住空間です。

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作品「生贄Ⅶ」 2005年作 キャンバス 油彩 45.5×37.9cm

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作品「卵を持つ少女3」 2008年作 キャンバス 油彩 33.4×24.8cm
かぐや姫が言うに「あかまむし~の人(研ナオコさん)」よく似てるかもね。

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ご本人のホームページは http://www.kuniyoshikaneko.com/

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レオナール・ミーミーラン

「芸術の秋」の所為か、最近の多チャンネル<スカパー>の洋画番組シネフィル・イマジカでは、画家にまつわる番組が多い。

今日も夕方、フェルメールを題材にした「真珠の首飾りの少女」を見た。決して初めてでわなく何回か見覚えのある映画です。

昨日はロートレックの「赤い風車」。他にもモディリアーニの「モンパルナスの灯」、「クリムト」「フリーダ」など。

一カ月程前、大好きな藤田嗣治の展覧会を見た所為もあるでしょうが、日本人として世界で最も知られた、あのレオナール・フジタの自伝を映画化したら面白いのに。

どの映画も残された写真にそっくりの顔をした俳優さんが演じている。

そこでミーミーランもレオナール・フジタをもじってレオナール・ミーミーランに変身~。

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参考にした藤田画伯の写真や自画像です。

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いい夫婦・・・モディリアーニ

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「いい夫婦・・・モディリアーニ」と題した、このアメデオ・モディリアーニ(1884年7月12日生れ)とジャンヌ・エビュテルヌは、1916年12月30日出会い、その時に描いたスケッチが残されている。

その翌年に同棲生活を始め、1918年11月29日に南仏ニースで長女が誕生している。正式に結婚、入籍関係だったかはともかく、モディリアーニが35歳の若さで結核性脳膜炎のため死去するまでの約3年半の夫婦生活。

彼が病死の2日後の早朝5時頃、妊娠8ヶ月だったジャンヌは実家のアパルトマンの窓から身を投げた。(享年21歳)余りにもはかない彼女の一生。

映画「モンパルナスの灯」では、ハンサムで定評のモディリアーニをジェラール・フィリップが演じ、ストーリーはご存知の方も多いのではないかと思いますが、私は「画家のいい夫婦関係」として今日のブログに掲載いたします。

モディリアーニはジャンヌと知り合う前にイギリスの詩人ベアトリス・ヘイスティングスと同棲生活しており、元来病弱な体質にも関わらず、酒と麻薬におぼれた退廃的な生活が、芸術家の生き様として同情を呼んでいるところもみられる。

女性遍歴が多いようにも思われているが、私は案外「真面目な男」と共感します。ヌードの絵画も多くあるので、女性にふしだらな男と思われがちだが、本(モディリアーニの恋人 新潮社発行)にはこんな記載がある。

★ヌードデッサンは絵画修業の基礎ですから、フィレンツェの教室でもやっているんですが、油絵として描くのは1916年から。

この年に知りあった画商のズボロフスキーが、肖像画ばかり描いていたモディリアーニを裸婦の連作で売り出そうとしたんですね。

彼は基本的に恋人の裸は描かないとされていて、しかしプロのモデルを雇う余裕はなかった。そこで、ズボロフスキーが用意したモデル(娼婦)を、非常な集中力をもって描くんです。★

モディリアーニの時代、表現の自由称しても、陰毛のある絵画を公の場で展示されるのは、ワイセツ物扱い。個展会場で警察の目を引いてしまい、取り外しを命じられたりされる時代のことで、おおかたこんなモデルを描いていた彼を、女たらし風にイメージされたのだろう。

モディリアーニが愛しいジャンヌを描いた絵画をご覧いただくと、彼の深い愛情を感じるのではないでしょうか。
最後に、ジャンヌがモディリアーニを思っての後追い自殺に触れないわけにはいかない。
いまどき流行らないかもしれないが、愛情表現に命をかけてまでも・・・。
彼の死後、後追い自殺したジャンヌの気持ちはどれほどの想いだったのか。本文には「妊娠中にはやや嫉妬深くなったようだ」とも記されている。

おもしろ美術展?

今、関連記事の中からThe New York Times紙のビデオ覧に面白い映像があったので、紹介いたします。

下のURLをクリックしてARTSをご覧下さい。

http://graphics8.nytimes.com/bcvideo/1.0/iframe/bcHomeIframe.html?z=0&playlistId=1194811622188

藤田嗣治の晩年

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今日は、晩年の藤田嗣治について書かれた文章と写真を記事にいたします。

本のタイトルは「藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色」より、2002年11月27日初版本が発行されているが、この時は君代夫人も日本での彼の出版を快く許していたようで、株式会社講談社から発刊されている。

藤田は、1959年ランスの大聖堂でキリスト教に改宗した。これはフランス人にとって驚愕(きょうがく)の事件だった。ランスは、フランク族のクロヴィス王がキリスト教に改宗した由緒ある地である。

良き時代のモンパルナスを代表する画家として著名だった藤田の改宗は、パリの新聞、雑誌に大きく報道された。カトリック教徒になるにあたり藤田は、尊敬する画家レオネルド・ダ。ヴィンチにちなみレオナール(レオナルドのフランス語読み)と改名した。

すでに1955年にはフランス国籍を取得していた藤田は、カトリック教徒になることで、よりフランスとの結びつきを強め、平穏な心のよりどころを求めてのであろうか。

改宗を機会に宗教問題の作品をそれまで以上に多く描くようになる。

人物のボリュームと空間の巧みな表現、人物間の心理的な結びつき、動きと統一性のある画面構成、それぞれの人物を描いた優美な描線、抑制された感情表現などに藤田芸術が到達した高みを見ることができる。

1920年から藤田が辿ってきた道程のすべてがここに凝縮されているのである。

カトリックとなった藤田が生涯の最後に挑戦したのは、洗礼を受けたランスの地に自分がデザインした礼拝堂を建てることだった。

建物、彫刻、ステンドグラス、壁画などすべてを自分でデザインし、フレスコ画は壁面の漆喰(しっくい)が乾かないうちに絵具を混ぜて描いていく技法であり、たいへんな労力を要する。

修整がきかないので確かな技術も必要である。藤田がフレスコ画で示している筆づかいは、これまでのキャンバス作品に見られた繊細で優美なものと異なり、スピード感あふれるものだ。太い線が力強く人物の輪郭を浮き上がらせている。

乾いてしまえば、描けなくなるフレスコゆえの表現である。確かなデッサン力と大画面の構成力なくてはこうした壁画は描けない。

1921年ヴァチカンのシスティナ礼拝堂でミケランジェロの「最後の晩餐」を見て以来の夢が、ここに実現したのだ。

そしてこのノートル=ダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂のもとに精神の安住の地を得たのだった。
礼拝堂は1966年秋に完成し、パリ郊外ヴィリエ=ル=バクルの自宅に戻るが、体調をくずし12月には入院し手術を受ける。

翌年1年間はパリとチューリッヒの病院への入退院を繰り返したが、1968年1月29日、チューリッヒの病院で亡くなった。81歳だった。

藤田はヨーロッパの絵画革新のために、日本の美学を用いた。「日本画」に囲い込まれていた繊細な線、滑らかな下地の平面性を取り出し、それを「洋画」を描くために用いたのである。

その過程で「日本画」と「洋画」の壁は取り払われた。藤田はその両者が連続するものであることを示し、豊かな表現の可能性を示唆した。

藤田は1949年羽田空港から日本を去る時に、「国際人となれ」と言い残して機上の人となったと伝えられている。

現在では日本の美術作家が世界各地で活躍しているが、彼らは日本の美の伝統と国際的表現を結びつけ、独自の境地を実現することで高い評価を受けている。

藤田はそうした美術作家たちの先駆となったのである。
                                     (著者 清水敏男)

ペーテル・パウル・リュベンス(ルーベンス)

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私の好きな画家の一人に、リュベンスをあげることができる。ルーブル美術館で見た巨大な作品の数々、官能美ある女体に圧倒された烈しい記憶がある。

昨日、改めてリュベンスの本を読んでみて、彼が意外にも模写画も多く手がけていたことが分かった。

ぺーテル・パウル・リュベンス(1577~1640)は、17世紀最大の人物の一人である。

彼は第一に画家であったが、学者でもあり、絵画や古代彫刻の熱心なコレクターでもあった。さらに国際政治の舞台で活躍する外交官も兼ねていた。

膨大な書簡が物語るように、リュベンスは同時代の先端的思潮に強い関心をもっていた。
広くあちこちを旅行し、どの時代の画家としても例外的なことに、ヨーロッパの諸大国の王侯貴族と個人的に知り合っていた。

世を去ったときには、裕福で有名であり、繁盛する工房の主催者、荘園領主だった。2人の君主から騎士の位を授けられてもいた。

しかし、リュベンスは裕福な家に生まれたわけではなく、その幼年期には、時代の政治的混乱や両親の不幸が影を落としていた。

下絵を描いて自ら制作したものと、他人に制作を委ねて監督したものとを合わせると、リュベンスは絵画、銅版画、木版画を全部で3000点余り生み出した。圧倒的生産力にひけをとらないのが驚くべき多面性である。

巨大な装飾画連作や大画面の祭壇画をはじめとする宗教画も描いたし、肖像画や風景画、さらに寓意画、神話画、歴史画も描いた。

書物の扉絵や挿絵のデザインを手掛け、版画家や彫刻家、建築家や銀細工師やタペストー製作者のためにも下絵を提供した。不得意な分野など存在しなかったように見える。芸術的才能と野心に加えて、リュベンスの世俗的成功にはほかにも多くの原因があった。

なかでも見逃せないのは、好機をつかむ能力であり、そのとき手掛けている仕事にもてる技量のすべてを注ぎこむ集中力である。

また、同時代の証人たちは、リュベンスの知的好奇心や自らを律する厳しさ、感じのよい魅力的な人柄などについてもしばしば言及している。

実際、リュベンスは称賛されるだけでなく、人に愛される人物だったようだ。
リュベンスは少年時代に経済的な苦しさを体験していた。そして生涯にわたって勤勉を旨としており、それは並外れた才能と結びついて、莫大な富をもたらした。

リュベンスは創作上の行き詰まりに悩んだことはなさそうに見え、職業上の失敗もほとんどなかったように見える。

今日は1639年作(彼62歳)の自画像と彼の主だった作品を紹介いたします。

ギュスターヴ・クールベ

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クールベは中学生時代から好きな画家の一人、今日「ある画家の生涯、ギュスターヴ・クールベ」マリー・ルイーゼ・カシュニッツ著 鈴木芳子訳の本を読んでいて、備忘録にも残したい印象的な文章があった。

ジャン・デジレ・ギュスターヴ・クールベ
1818年6月10日フランス東部フランシュ・コンテ地方の小都市オルナンに生まれる。
1877年12月31日死去(享年58歳)

クールベはいかなる助言にも耳を貸さず、独学で絵を学びたかった。ひたすら練習し、ひたすら大家がどうやって成功したか、どうすれば彼自身にとって最上のものを描くことができるか見出そうとした。

自立したクールベは、毎日何時間も一般公開の小さなアカデミーで過ごした。毎月6フラン出せば、特に授業料を払わなくても、生身のモデルをデッサンし、描き、彫塑をすることができた。

日曜ごとに友人のボンバンと一緒にルーヴル美術館に足を運び、作品を鑑賞し、感嘆し、非難した。「ラファエロは才気を欠く。おもしろい肖像画もあるが、思想というものがまったく感じられない」「ヴェロネーゼはちょっとしたものだが、弱点もなければ、やりすぎもない画家だ」「レンブラントは利口者を魅了し、愚か者を打ちのめし茫然自失状態にする」等々。カラヴァッジョや他のボローニャ派の画家たちのテクニックを徹底的に研究した。

これらの偉大な、熱賛する数々の絵の前でクールベは何時間もすごし、線という線、色調という色調を脳裏に刻み込んだ。持ち前のなみはずれた勤勉さで模写を始め、いにしえの巨匠の作品のみならず、ジェリコーやドラクロワといった同時代の作品も習作用に選んだ。

クールベの芸術家魂の根っこはロマン主義にある。ロマン主義を脱却し、さらに成長するたねに、ひとまずロマン主義に帰依し、躍動感あふれる線や輝くような色彩を自作の最初の表現様式とせねばならなかった。

かくして時代好みに適う初期の作品が生まれた。素材にはジョルジョ・サンドのいわゆる情念小説「レリア」、ヴィクトル・ユーゴーの有名な詩から囚われの「オダリスク」ロマン主義的粉飾をほどこした旧約聖書から「ロトとその娘たち」「ファウスト」から「ヴァルプルギスの夜」が選ばれた。

クールベは文学には関心がなく、一度も見たことのない人物に説得力ある生命を吹き込むだけの空想力が欠けていたので、これらの絵は皮相な模倣でしかなかった。しかしながら彼が片意地な確信を持って、まもなく彼にふさわしい画法を見出すと、アトリエの同僚たちは、何やら感動をもたらす独特なものとしてのその画法をまねた。

クールベは大きな板に油を染み込ませた灰色の厚紙を張って描いた。彼の回りには大きな絵の具箱、安価な絵の具の容器が散らばり、何よりもお気に入りの道具はパレットナイフだった。

パレットナイフでじかにパレット上のどろどろした絵の具を混ぜ、カンバスに平塗りし、配置し、暗色の表面を細心の注意を払いながら削り取り、より明るい色に変えた。ワイルドな黒髪が顔の回りを額縁のように囲む長身でやせ形のクールベはイーゼルの前に立ち、何日も休むことなく、何かに憑かれたように描き続けた。

手先の天才的な器用さから、ほどなく大家たちのテクニック上の妙技を易々と意のままにできるようになったが、満足できなかった。当時のいかなる流派も、彼を表現へと駆り立てる不屈のゆるぎない意志を満足させることはできないと知った。

焦燥感を募らせながら、いつ訪れるとも知れぬ一念発起の瞬間、他ならぬ自分自身に対する決意と誓いの瞬間を待った。

ポール・デルヴォー

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今日は、ポール・デルヴォーの作品を数点紹介します。

16世紀のマニエリスト達の女性像や、独自の夢とノスタルジーの世界を築く。

くり返し表現される裸体、建物、電車、背景にはギリシャ神殿がよく用いられる。

静寂さの中に幻想的な世界が広がる。幻想画家といわれるゆえんがある。

1935年以後、運動には直接参加しないままシュルレアリスム展にしばしば出品。

長くブリュッセルに住んだが1994年に没す。

ベルギー北西部のリゾート地KoksijdeのSint-Idesbaldには彼の主要作品を多く所有する
ポール・デルヴォー美術館がある。

熊谷守一

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絵のことはともあれと言うと、「なんで?」と言われそうだが、熊谷守一はその風貌が素敵で、
大好きなんです。

優しい純粋な輝いた目、老いてもなお輝いている目、こんな老人に成りたいものだ。

一日中蟻を観察していても、あきないそうだが、他にも鳥や猫を何匹も飼っていた。

あの警戒心が強いカラスが先生の頭に乗り、髪を突いてじゃれあっているよう、鳥はいたって
人には馴れにくいものなのに、先生には寄り添ってくる。

この光景を見れば、彼には動物からも好かれる本当の優しさ、安心さがあるからでしょう。

いい夫婦・・・熊谷守一

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ご夫妻の仲の良さは、奥さまの表情から察することができると思います。

一番上の写真をご覧下さい。自分の肖像画を嬉しそうに見せる奥さまの表情、
1918年作、奥さまが20歳で、結婚前の時の絵の写真は最高ですが、
実際の結婚生活は、極貧の中で始められたという。

収入30円、家賃30円。次々と生まれた子供も身体が弱く、熱を出しても、
病院へも行けなかったらしい。

奥さんはむろん、周囲の人も「絵を描いて稼いでください」と言ったが、
熊谷は「たしかに、それは言われる通りなのです。しかし何度もいうようですが、
あのころはとても売る絵はかけなかったのです」(へたも絵のうち)と記しておられる。

熊谷守一1880年4月2日~1977年8月1日 享年97歳
秀子夫人1898年    ~1984年6月1日 享年86歳
お二人とも長寿である。特に熊谷に至っては97歳、肺炎のため亡くなったが、天寿に近い。

二人で将棋や囲碁を楽しんだり、何をするにも二人一緒で、本当にいい夫婦ですね。
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