備忘録
今日のYahooニュースより
6日に心不全のため東京都内の自宅で死去した小澤さん。看取った征良さんが「報道ステーション」のキャスター、大越健介氏(62)に臨終の様子をメールで明かした。放送では大越氏が要約して読み上げた。 文章は「2月5日の夜は大雪で、いつもより遅くの時間まで大はしゃぎして、ガヤガヤワイワイ、父のベッドの近くで笑ったり喜んだりしていました。父はうれしそうな顔で穏やかに目をつぶっていました」と、家族と一緒にいた亡くなる前夜の様子から始まる。 「『I LOVE YOU』と、いつものように寝る前に手をさすったら、私の指をギュッと握り返してくれて、目をつぶっていても『分かっているよ』と合図してくれました」と克明に回想。天国へ旅立つ瞬間を「全く呼吸が乱れたり苦しそうな様子もなく、そのまま寝て逝った感じです」と振り返った。
「安倍晋三回顧録」を読み終えて、
本書は472ページにわたり2020年10月から2021年10月まで衆議院第一議員会館1212号室で、計18回、36時間にわたって行われた未公開のインタビューを書籍化したもの。
今朝ようやく読み終えました。先週25日土曜日、日本経済新聞の読書覧「この一冊」にも紹介されていました。
亡くなられた現実があるにも関わらず、まだ生きれおられるような気がしてなりません。
優しい素敵な笑顔が印象的な安倍元総理大臣、民放にもたくさんご出演され、馴染みやすい存在、それでいて、国際的にも発言力を持ち、日本人として一番誇れる総理大臣でした。
トランプ元大統領との相性が良かったようですが、2019年国賓として来日、皇居で天皇、皇后両陛下とトランプ夫婦が会見するとき、「シンゾウは私と会うとき、いつもスーツのボタンをしているけど、私もしたほうがいいか」と聞いてきたので、「私の前ではしなくてもいいから、陛下の前ではボタンをしてくれ」とお願いしました。会見の冒頭では忘れていたみたいだけれど、その後、しっかりボタンを留めていました。
もうひとつエピソードを紹介すると、大相撲観戦後、六本木の炉端焼き店へ行くとき、「大統領専用車ビーストに同乗してもよいか?」事前のゴルフ場で伺ったら、シークレットサービスの反対を振り切ってトランプ氏がOK。発進後歩道にいた大勢の人が手を振るので「みんな手を振っているけど、シンゾウに振っているのか?それとも私に振っているのか」と聞いてきたので、「車の星条旗がたなびいているのだから、あなたに振っているんですよ」と答えた。すると嬉しそうにトランプも手を振るわけです。「でも、向こうから車内がみえないだろう」と言って、社内のライトをつけた。すると前に座っていたシークレットサービスが「ダメだ、電気を消して」とたしなめるのです。ビーストは2台で走っていて、どちらに大統領が乗っているのか分からないようにしているのですが、その意味がなくなっちゃうわけです。
するとトランプは「シンゾウ、大丈夫だ。この車は200発の弾丸を同じ場所に撃ち込まれても、貫通しないから」と自慢するのです。それに対し同乗していたメラニア・トランプ夫人が「201発目が来たら、どうするの?」と聞いて、みんなで笑いました。
トランプ氏の人間性がよく分かりますよね。
今国際情勢がきな臭い、いや現実にはウクライナ、シリアでは戦争が続く。各国指導者が自国の国益を表向きに正当化して国民に戦争参加させ、尊い命が奪われているのです。
所詮虫けらのごとく扱われている兵士たち。悲しいですね。人によっては虫けらにも尊厳をいだき、命の尊さを何よりも先に考える人もいるのに・・・。
最後のページは、国葬時の岸田文雄首相、菅義偉前首相、2022年7月12日葬儀時の麻生太郎元首相、2022年10月25日第210回国会衆議院本会議での野田佳彦元首相の追悼演説で終わっています。それぞれが安倍元首相に思いを寄せる弔辞を読むたびに涙がこぼれます。
今日も板谷画伯に関するコメントをいただきました。
三彩という雑誌をご存知でしょうか。戦後すぐに創刊され、20数年前に廃刊になってしまいました。小出楢重の特集等、好きな美術雑誌です。といっても存在を知ったのは廃刊後ですが。国立国会図書館にも蔵書があり電子化されています。ダウンロード出来ればいいのですが機材の不備で出来ません。1968年12月号、通巻238号にmemeranさんが板谷房とお会いになった松坂屋での個展評(結構有名な記事らしいので)が載っているので現物を古書店から取り寄せて見ました。図版も7点掲載されています。ブログにもあった『平和のための宴』がカラーグラヒアで、また模写をされた2点と共に『タブローの前』もモノクロのグラヒアで掲載されています。偶然が引き合わせたのか、お買いになられたのは本当にいい判断でした。代表作で名品です。7点の図版の中に知人のもっている裸婦も掲載されていました。1958年の個展評が掲載されている月刊『美術手帖』は今の所、基本ソフトの不備で購入出来ませんが、板谷の死後発刊された、板谷のパリでの奮闘記が描かれている『芸術新潮』等も、まだ見ていませんが届いています。その他、パリやイギリスの古書店でも売っていますが1972年の遺作展の図録も届いており、見終わったら然るべき場所に寄贈する予定です。
2020年07月07日 08:14
〇〇様、いつもコメントありがとうございます。
雑誌「三彩」よく古本屋で見かけました。板谷画伯はやはり当時も話題の人だったようですね。
数日前から、板谷画伯からいただいた松坂屋画廊でのカタログを探して、すべての写真を撮影して、貴殿に報告したく思いましたが、相次ぐ引っ越しと片付けで、どこかの段ボール箱にあるはずですが、今だ探し当てず。
小野様の熱意で板谷房画伯の実態が解明しそうですね。
私ももう一度大事にしていたカタログを探してみます。
私が模写した板谷画伯の絵画2点です。
「ローブの少女」 サイズF20号 製作期間2016年5月20日~8月28日
「ミニ・ジュープの少女」 サイズF15号 製作期間2016年5月31日~8月18日
またまた、画家板谷房に関しての新情報のコメントをいただきました。
1964年から65年にかけて、板谷房はフランス政府から芸術院賞を貰い、サロンで3回目となる金賞を受賞して無監査となりますがこの頃から皆が手軽に買える、手頃な値段の少女像の小品を量産してフランスはもとよりアメリカ、スイス等に向け販売しています。精力的に製作し生活に余裕もあり充実したこの時期に、memeranさんは帰国した板谷さんと出会ったのですね。掲載されている少女のポートレートのステンドグラス風の背景はドイツ製の金箔(真鍮製もあるらしいのですが)に上から色を被せてあるそうで競売情報を見るとミクスドメディアと分類しているオークションハウスもありました。
私からの返信
2020年07月05日 21:3
〇〇様、またまた新情報をありがとうございます。
私が松坂屋本店の画廊で出会ったのは1968年ですから、この時期になります。
当時画廊に出品されていた絵画を、いただいたカタログで思い返して、今にして思えば、板谷画伯の絶頂期だったような気がします。
本当にどの作品にもスキのない緻密な描き方で、私が17歳の子供ではありましたが、心底惚れ惚れとして見入っていました。
それを何か勘違いされたのか「君は絵描きになる目をしているね。」と声をかけていただき、以後その気になって絵描きになる夢を見ていました。
もうひとつのコメントはこちらです。
板谷房の作品には、まだ20年余り著作権が残っていて競売終了後に図版が削除されているものも沢山ありますが、アメリカの記録等ではかなり遡れます。その中でも最も充実した時期に描かれた風景、サインからすると6号位でしょうか、https://www.invaluable.com/auction-lot/foussa-itaya-japanese-french-b-1919-1028-c-16596b09b5成る程と思わせる壁道橋の質感、統一され抑制された、でも穏やかで明るい色調と板谷ブルー、手前の屋根の稜線と淡い雲の峰が右下に伸びる一方、道は右上奥に向かう一点透視の落ち着いた構図、一見冴えない下町の川沿いの風景をモダンに甦らせていて、キリコの形而上絵画の様でもあり見方によってはシュール、隠れた名品だと思います。
私からの返信はこちらです。
2020年07月05日 21:50
〇〇様、新情報ありがとうございます。
早速にコメントのアドレス検索いたしました。
1923年生まれ、1971年没のわずか48年の生存でしたが、私の人生観でも40代が、一番仕事に乗っていた時期なのではないかと思っています。
体力、気力でも一番無理が効き、活躍できた年代だと思います。
私が出会ったときは板谷画伯が45歳の時、当時の写真からもうかがえる通り、写真の顔つきに底知れぬ自信がみなぎっています。
そのような意味でも、私が手に入れた絵は、板谷画伯の自信作であったに違いありません。
勝手ながらそう信じて、壁に飾った板谷画伯の絵を毎日見ています。
私が17歳の時、松坂屋本店画廊で出会った当時の板谷房画伯の写真。
そして私が数年前手に入れた板谷画伯の油絵、タイトル「タブローの前」
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