今日から「旅サラダ」MCの神田正輝さんが復帰、比較的元気な顔を見せてくれました。

ここ最近、芸能界で70代の有名歌手や俳優が亡くなる記事に、今週73歳の誕生日を過ごした自分もまた用心しなければと戒める毎日です。

以前から自分の心にぐさりと突き刺さる文章をブログのカテゴリ「備忘録」に残してきましたが、今日の日経新聞記事の「言葉のちから」(若松英輔)がやはり心にしみる文でした。

言葉のちから
人生において重要なのは前進よりも原点を見失わないことである。誤った方向にむかって前進することが少なくないことは誰でも知っている。
ある人は原点を初心と呼び、ある人は目的と言うこともある。現代ではしばしば、目的が見失われ、目標が重んじられる。初心は軽視され、慢心を体現したような人物が責任ある立場に就く場合もある。
私たちは学校だけでなく職場でも、目標を重んじる風潮の中で生きている。目標は多くの場合、可視的に設定される。たが目的は、不可視な姿で実感される。
目的の場合、実感というよりも予感という方がそのありように近い場合もあるのだろう。
このまま前進すれば評価は得られる。だが、目的からは乖離(かいり)するかもそれない。そう感じられたことも多くの人にあるのではあるまいか、目標の邁進(まいしん)することは、目的を見失っていく道程になり得る、目標は前進と結びつきやすい。誤った目標を目指して前進したところで必要なものを見出すことは出来ないだろう。
人生だけでなく創作において重要なものも前進ではなく、原点、目的である。

中川一政パレット

中川一政は、近代日本を代表する画家だが、文学者といってもよいほどの随筆も残している。そもそも表現者としての彼は絵画ではなくは、歌と詩から出発した。彼にとって重要だったのは表現それ自体出合って画家であることでも文筆家であることでもなかった。
そうした生き方だからなのかもしれないが、私は、彼が絵画をめぐってつむいだ言葉に分泌におけるかけがいのない示唆を見出す。
道に迷いそうになったときなど、画を眺めるように彼の文章を読んでいる。するとしばしば言葉に出会う。たとえば「画にもかけない」という彼九一歳になる年、世に送った本には、絵の具をめぐる次のような印象深い一節がある。
「師匠は苦労して自分になくてはならぬ絵の具を並べた。その苦労を今は一人一人がやらねばなりません。他人のパレットは役に立ちません。(中楽)人に教わったらすぐ出来ると思う事でも、間にあわせでない自分の仕事をしようとしたら矢張りそれだけの時間はかかるのです。その人のパレットが出来た時、その人の仕事が軌道に乗った時と云ってようでしょう。」
これが自分のパレットである、そう呼べるものが立ち現れるとき、その人は真の意味で画家になる。人からもらったパレットをどんなに巧みに用いてもその人の絵は生まれない。世の人は良い絵を画(か)くことに時間を費やす。だが、絵を画き続けることを志す者は、絵だけでなく自分のパレットを生むことにこそ注力しなけらばならないのだ、というのだろう。
まったく同じことが言葉にもいえる。心理学者の河合隼雄の表現を借りれば、心を支えている「たましい」と呼ぶべき場所に言葉を届けようとする者は、言葉のパレットと呼ぶべきものを生まねばならない。
パレットを売っている絵の具を置くだけでは画けない。それを自分の色にしなくてはならない。言葉も同じで、辞書に載っている言葉を数多く覚えるだけでは、人の「あたま」に届く言葉しか語れない。
辞書的な言葉でもよいではないかと思うかもしれない。だが、生きられた言葉ではない、知っただけの言葉を用い続けるもっとも大きな危険は自分を見失うことである。生きられた言葉━すなわち「生きた言葉」━は、その人と他者をつなぐだけではない。その人自身との関係も確かなものにする。
同じ中川の本に絵の具にふれたこんな一節もある。
「黒田清輝が云ったそうです。/絵具をまぜるに十分まで混ぜるな。六七分で止めよ。そうすれば画布へもって行った時十分になる。/十分まぜたら画布の上で十二分十三分になって色は死ぬ。」
文章を書くときも、同じである。書くことにおいて「混ぜる」とは、言葉と言葉を生きたかたちでつなぐことである。「十分まで混ぜる」とは、否定の余裕もないような明瞭な表現に固定することにほかならない。いっぽう「六七分で止め」るとは、言葉と言葉のあいだに沈黙、あるいは余白を置く、ということのなる。
難しいのは明白に語ることではない。読まれ、あるいは聞かれることによっていっそう意味が深まっていくような語り得ない場を生むことである。人が何かに出合うのはいつも、こうした不可視な意味の地平においてなのである。(批評家)