2021年03月
昨日ブログ記事にした絵が、今日午前に届きました。



早速梱包を解き、額から絵を取り外して検証、1979年制作サインなのでコレクションの内、同年制作のマイコレクションが2点あったので比べてみました。
間違いなくサイン、制作年の数字の書き方は全く一緒です。
そしてもうひとつ気が付くことは、キャンバス生地が日本製のキャンバスに比べ粗悪で、麻生地に白の絵の具を塗った自家製のキャンバスを使用しています。



制作年が1979年は中島画伯が30歳の時、まだ画法が確立していないがいろいろなテーマを題材に模索中の様子が窺えます。
ちなみに最近の絵には、華やかな色彩と写真を参考に描いた人物画が目立ちます。


【作家略歴】
1949年 愛知県一宮市に生まれる
1971年 スペイン王立サン・フェルナンド美術学校入学
1972年 同大学より名誉登録・優秀賞受賞
1975年 サン・フェルナンド美術館買い上げ
1976年 同大学教職コース終了
1977年 小田急百貨店にて個展
1983年 千石画廊・個展
1985年 大阪大丸・個展
1987年 大阪大丸・個展
1989年 大阪大丸・個展
1990年 千石画廊・個展
1996年 東急本店・個展
2002年 名古屋三越・個展
~東京・名古屋・大阪にて個展多数開催
現在 スペイン・マドリード在住
【所蔵】
サン・フェルナンド美術館(スペイン)



早速梱包を解き、額から絵を取り外して検証、1979年制作サインなのでコレクションの内、同年制作のマイコレクションが2点あったので比べてみました。
間違いなくサイン、制作年の数字の書き方は全く一緒です。
そしてもうひとつ気が付くことは、キャンバス生地が日本製のキャンバスに比べ粗悪で、麻生地に白の絵の具を塗った自家製のキャンバスを使用しています。



制作年が1979年は中島画伯が30歳の時、まだ画法が確立していないがいろいろなテーマを題材に模索中の様子が窺えます。
ちなみに最近の絵には、華やかな色彩と写真を参考に描いた人物画が目立ちます。


【作家略歴】
1949年 愛知県一宮市に生まれる
1971年 スペイン王立サン・フェルナンド美術学校入学
1972年 同大学より名誉登録・優秀賞受賞
1975年 サン・フェルナンド美術館買い上げ
1976年 同大学教職コース終了
1977年 小田急百貨店にて個展
1983年 千石画廊・個展
1985年 大阪大丸・個展
1987年 大阪大丸・個展
1989年 大阪大丸・個展
1990年 千石画廊・個展
1996年 東急本店・個展
2002年 名古屋三越・個展
~東京・名古屋・大阪にて個展多数開催
現在 スペイン・マドリード在住
【所蔵】
サン・フェルナンド美術館(スペイン)
今朝のメール「おめでとうございます!!あなたが落札しました。」
画家の名前は存じ上げませんでしたが、出来栄えの良い絵と判断しています。
タイトル「女性像」 サイズ F12号








写真は出品者からの画像をお借りしました。
オークションの説明には、画家の名前「スズキセイイチ」と記されているだけ、「画家スズキセイイチ」で検索したら、「画家 鈴木清一」が表示され写真とその個展記事が出てきました。

自画像

鈴木清一の作品を保存・整理している三男・耕三さん(左は清一画「自画像(複製)」1928年)

自画像

鈴木清一の作品を保存・整理している三男・耕三さん(左は清一画「自画像(複製)」1928年)
たぶんこの画家でしょう。そこにはこう説明がありす。
戦前の兵庫画壇の黄金期を築いた洋画家・鈴木清一(1895-1979)の、11年ぶりの回顧展が、10月25日~11月6日、こうべまちづくり会館で開催された。
茨城県・水戸市出身の鈴木清一は26歳で帝展初入選、昭和のはじめに神戸へ移り住み、帝展や文展の常連として出品しながら、小磯良平、小松益喜らとともに地方画壇のために活動していたものの、戦後、美術画壇からは一切姿を消してしまった。というのも、清一は戦争中、大政翼賛会の傘下に置かれ、美術家も戦争に協力するよう新しく組織された兵庫県新美術聯盟の委員長に就任しており、戦中は「彩管報国(絵筆をとって国恩にむくいる)」の名のもとで200人を超える会員の先頭に立っていた。しかし戦後、状況が一変すると、逆にその立場を問われ、公職追放となってしまう。清一自身も、最高責任者としての責任をいさぎよく負い、一切の画壇活動から身を引いたのである。「損得勘定を嫌い、世渡りに長けた人を好まない」人物だったという、画伯の潔白な人柄がうかがえる。
画壇は去ったが、絵筆は折ったわけではなかった清一は、晩年に至るまで舞子や六甲といった神戸の風景を描き続け、またろうけつ染やその図案なども多数創作している。今回の展覧会では、清一が戦前・戦後に描いた神戸風景、戦中に粗末な紙に描かれた絵画、デッサン、スケッチなど44点が展示された。期間中、清一の三男・鈴木耕三さんの講演会も開催。神戸といえば異人館やおしゃれな婦人などの洋画が思い浮かぶが、清一が描き続けたのは原風景ともいえる、松林や山並みなどの風景だった。84歳で亡くなった際、イーゼルの上に乗っていたのも舞子の松林の絵だったという。
茨城県・水戸市出身の鈴木清一は26歳で帝展初入選、昭和のはじめに神戸へ移り住み、帝展や文展の常連として出品しながら、小磯良平、小松益喜らとともに地方画壇のために活動していたものの、戦後、美術画壇からは一切姿を消してしまった。というのも、清一は戦争中、大政翼賛会の傘下に置かれ、美術家も戦争に協力するよう新しく組織された兵庫県新美術聯盟の委員長に就任しており、戦中は「彩管報国(絵筆をとって国恩にむくいる)」の名のもとで200人を超える会員の先頭に立っていた。しかし戦後、状況が一変すると、逆にその立場を問われ、公職追放となってしまう。清一自身も、最高責任者としての責任をいさぎよく負い、一切の画壇活動から身を引いたのである。「損得勘定を嫌い、世渡りに長けた人を好まない」人物だったという、画伯の潔白な人柄がうかがえる。
画壇は去ったが、絵筆は折ったわけではなかった清一は、晩年に至るまで舞子や六甲といった神戸の風景を描き続け、またろうけつ染やその図案なども多数創作している。今回の展覧会では、清一が戦前・戦後に描いた神戸風景、戦中に粗末な紙に描かれた絵画、デッサン、スケッチなど44点が展示された。期間中、清一の三男・鈴木耕三さんの講演会も開催。神戸といえば異人館やおしゃれな婦人などの洋画が思い浮かぶが、清一が描き続けたのは原風景ともいえる、松林や山並みなどの風景だった。84歳で亡くなった際、イーゼルの上に乗っていたのも舞子の松林の絵だったという。
キャンバス裏面に「1978年 大島智子様」と書かれているから、亡くなる1年前の作品でしょうか? お名前は差し上げたお方かモデルでしょうか?
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