泰西名画模写画とオリジナル絵画、コレクションの作品紹介

10年以上続けてきたヤフーブログから移行してきました。 画家になりたいという、若い頃からの夢をかなえたくて、独学で模写から勉強しています。 また、好きな人物画を主に、有名無名を問わず気に入った絵画収集にも努めています。 他にも日々お出かけの日常などを紹介しています。

2008年12月

いい夫婦・・・宮本三郎

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今日は、文枝夫人の「夫を語る」の文章に現実の宮本三郎像が見えるので、一部分を抜粋して記しておきます。

男らしい、女々しいところはなく良い人でした。他人には優しく、自分には厳しいというのが、主人のモットーでした。

家族の中でも何かと思いやりのある人でした。子供を叱ったこともありません、専ら私がガミガミ言っていました。

毎日の生活で制作の手を休め夫に戻るのは昼食と昼寝の時間、それに夕食後くらいで、夜はゆっくりテルビでも見るといった繰り返しでした。
食事にしても特に注文するということは昔からありませんでしたし、気が楽でした。

主人は誠実な人でしたから、どんな日でも絵筆を持つということを信条として、自分に厳しく言い聞かせていました。

主人は晩年によく「人間を描くことに生涯を賭けたい」と言っていました。

よく円熟期の作品ということを言われますが、ある時、娘が遊びに来て珍しく主人と話し込んでいる時「最近、絵を描くのが非常に楽しく、明日が待たれないくらい待ち遠しくて、寝ていられないくらいだよ」と語っていたそうです。

主人は「自分はリアリストであり、一生変わらない。あくまでリアリストとしての仕事を深く掘り下げていく」と言っておりました。

花も沢山描いていますが、主人は「花を描くときは本当に楽しい。自分を許してかかれるから、自分としてはこんな楽しいことはない」と言っていました。
まあこれは私の想像ですけれど、花の色の美しさを描いていくうちに舞妓の衣裳の色彩を連想して描いていたのではないでしょうか。

最後の文枝夫人の一言が、宮本夫婦の「いい夫婦」関係を表現しているように思います。

宮本三郎

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宮本 三郎(みやもと さぶろう、1905年5月23日 - 1974年10月13日)は石川県能美郡末佐美村(現・小松市)生まれの洋画家である。
略年譜
• 1922年 上京し川端画学校洋画部で藤島武二に師事。
• 1927年 「白き壺の花」で二科展に初入選
• 1934年 初の個展を開く。
• 1936年 二科会会員に推挙される。
• 1938年 渡欧。パリについた画伯は冬の間毎日のようにルーブル美術館に通い詰めた。
          そして数多くの名画を見ているうちに、すぐれた古典の模写を思いついた。

         まず、手はじめに選んだのはレオナルド・ダ・ビンチの「受胎告知」、
         レンブラントの「聖家族」、アングルの「トルコ風呂」の三点である。

         しかし前二点は完成したものの、アングルの「トルコ風呂」は戦争による
         帰国のため模写をあきらめたという。

         ダ・ビンチの「受胎告知」は 画伯の気に入った作の一つで、帰国後、
         自宅の食堂の壁に掛け、毎日ながめていたという。(一番上の写真)

• 1939年 第二次世界大戦の勃発に伴い帰国。
• 1940年 陸軍省嘱託として小磯良平等と共に中国へ従軍。
• 1942年 「山下、パーシバル両司令官会見図」で帝国美術院賞受賞。
• 1943年 「海軍落下傘部隊メナド奇襲」で朝日賞受賞。
• 1946年 金沢美術工芸専門学校講師に就任。
• 1947年 熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、正宗得三郎、
      横井礼市と共に第二紀会を結成。
• 1955年 東京教育大学非常勤講師に就任。
• 1966年 芸術院会員となる。
• 1971年 金沢美術工芸大学名誉教授に就任。
• 1974年 10月13日腸閉塞による心臓衰弱で死去。(享年69歳)

私は、彼の作品に出会ったころの1970年から晩年までの4年間の作品が好きです。色彩が鮮やかで華々しく強く魅せられてしまうのである。

アトリエの画家(5)

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画家宮本三郎を知ったのは、1970年頃で、私が19歳の頃、二紀会の展示会場でだった。

翌年の二紀会での展示作品「二人」はアダムとイブが禁断の実を食べ、エデンの園を追われる旧約聖書の物語。モデルは日本人のようだが、その裸像の立体感と色彩に目を奪われ、宮本の大ファンになってしまった。

その後随分年月が経って、この感動的な絵を模写しました。
(関連記事は http://blogs.yahoo.co.jp/atoriemimiran/34196419.html )

この時期から彼が亡くなるまでの晩年の作品が好きです。

今日は「アトリエの画家」シリーズで彼のアトリエでの光景をおさめたスナップを紹介いたします。

特に有名女優さんとの交流も深く、作品に登場します。女優さんを前に嬉しそうな宮本画伯の表情が愉快です。

サルバトール・ダリ

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今日紹介する内容も購入した洋書からの写真です。

洋書の面白さは、日本の出版物ととらえ方が異なったり、作品の掲載が日本の出版画集で見らない作品に出会えることです。

ダリの絵は皆さんご存じの方が多いですが、彼の初期の作品は珍しいのではないでしょうか。

絵画作品の自画像はゴッホ的だし、その後も彼のスタイルが確立するまでは、いろいろ手法を取り入れている様子が分かります。

―――以下ダリの紹介文です。―――

ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで、裕福な公証人の息子として生まれた。母親も富裕な商家出身だった。

1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開く。

1927年、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンらの面識を得る。

1929年夏、詩人ポール・エリュアールが家族とともにカダケスのダリを訪ねる。その妻が、後にダリ夫人となるガラ・エリュアールであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、1932年に結婚した

画学生時代には印象派やキュビスムの影響を受けていたダリは、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。

ダリは1938年にグループから除名されているが、その理由は彼の「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからとされる。しかし彼の人気は非常に高かったため、そのあとも国際シュールレアリスム展などには必ず招待された。

ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような超現実的世界を描いた。

第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、またマネージャーでもあった。

第二次世界大戦中は戦禍を避けてアメリカ合衆国に住んだが、1948年にスペインに帰国。ポルト・リガトに居を定めて制作活動を行った。

1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落胆し、ジローナのプボル城に引きこもった。最後に絵を描いたのは1983年5月である。

1989年にフィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で、心不全により85歳の生涯を閉じた。

アトリエの画家(4)

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バルテュスの本名はバルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ。1908年ポーランドの伯爵家の次男としてパリに生まれる。

イタリア、ルネサンスの巨匠ピエロ・デラ・フランチェスカに衝撃を受けて画家になることを決意する。

「夢見るテレーズ」や「コメルス・サン・タンドレー」で脚光を浴び、少女、猫、鏡などのモチーフを多く描き、不思議な静けさと緊張感のある独自の絵画世界を確立した。

東洋への造詣が深く、アンドレー・マルロー文化大臣にフランスのアカデミー館長に任命され、京都への出張の際、当時20歳の出田節子さんと出会い、結婚。完璧主義で長い時間かけて制作をしたため作品数は多くないが日本にもファンは多い。

「一方で伝統的な写実絵画のクールベにならいながら、シュルレアルズムを目指した」とバステュスは言う。

その言葉通り、彼には写実的な風景画や静物画も数多い。だがバルテッス・ファンを魅了し、しびれさせるのは、危ない恍惚感に誘いこむ幻想の少女像だ。

例えば童女の幼児エロス的場面を描いた「ギター・レッスン」は余りにも有名。

作品の解説には http:/www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0984.html にくわしい内容が紹介されています。

いい夫婦・・・バルテュス

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バルテュス(Balthus 本名:Balthasar Klossowski de Rola, 1908年2月29日 - 2001年2月18日)は、20世紀のフランスの画家。

ポーランド貴族の出身で母親はユダヤ人。また実兄のピエール・クロソウスキーはマルキ・ド・サドの研究者として著名な作家である。

バルテュスは、20世紀のもっとも優れた人物画家のひとりに数えられる。

ほとんど独学であった彼は、ルーヴル美術館で古典絵画の巨匠たちの作品を模写したが、なかでもピエロ・デラ・フランチェスカの影響が大きいとされる。

古典を消化した、堅固な構成と繊細な描法でモニュメンタルな女性、少女像を多く描いた。

1937年にアントワネット・ド・ワットヴィル(Antoinette de Watteville)と最初の結婚をし、息子スタニスラス(Stanislas)をもうけるが、後に離婚。しかしこの先妻とは生涯友人であり続けた。

息子であるスタニスラス・クロソウスキー・ド・ローラは、後にバルテュスの作品集出版に当たって執筆を担当している。

1962年、パリでの日本美術展の選定のために訪れた東京で、当時20歳だった出田節子と運命的な出会いをし、1967年に結婚した。

節子夫人も画家であり、二人の間には1973年に誕生した娘春美(ハルミ・クロソフスカ=ド=ローラ、ジュエリーデザイナー)がいる。

節子夫人のプロフィールはhttp://www.shinchosha.co.jp/book/602135/に詳しく紹介されています。


勝新太郎はバルテュスの山荘に招かれ、居合い抜きや三味線を演奏したことがある(ドキュメンタリー映画「バルテュス(原題:Balthus the Painter)」監督:マーク・カイデル)。

ピカソの素顔

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ほとんどの写真が笑顔のピカソ、タオルで闘牛士の真似をし、子供と戯れ、

ダンスをし、椅子にかけて笑みをみせ、愛犬ランプをあやし、バスローブ姿等

どれもが人間らしいピカソの表情。

最後に2点、これがあのピカソの険しい表情の誰しもがイメージに持っている

ピカソの印象。

写真は、瞬時にその表情を捉え、後世にこのようにカメラマンの目線で、

私たちもピカソの前で、ファインダーを覗いているカメラマンになれる。

不思議な現代の発明物だ。

クリスマスパーティー

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昨日は午後2時から我が寮のすき焼きクリスマスパーティーを開催しました。

楽しかったのは学生たちが繰り広げるパフォーマンスの数々、1年生のカッパ隊合唱に始り、沖縄三線

(サンシン)合奏、二人羽織でのすき焼き早食い競争、ビール早飲み対抗戦、カラオケ、ギターライブ、

アームレスリングと続き、最後は全員のクリスマスプレゼント交換会で締め。

アッという間の5時間が過ぎた楽しいひと時でした。

その後も、有志による二次会が深夜11時まで続き、本当に楽しい思い出になりました。

ピカソのいい夫婦・・・?

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ピカソの女性関係は、一般の男性にとって羨ましい存在ではあるが、それ故に苦闘も多く、独占欲の強いピカソは、心境を絵にぶちまけた時代もある。

今日は、そんな中で最後の夫人ジャクリーヌとの甘い生活のスナップを紹介します。

画家としての作品に向かう厳しさとは別人の人間ピカソが見られて、微笑ましい。



参考文章「ピカソの生活」

ピカソは仕事をしているとき以外には、一人でいることができなかった。パリでは、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、アンドレ・ブルトン、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタインらと頻繁に会った。

正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエだった。

富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァという名前で知られるマルセル・アンベールと付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品の中に「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなった。

1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナのオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚した。

オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョア趣味を教えた。ふたりのあいだには息子〈パウロ〉が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。

1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり、中止した。

ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘〈マイア〉が生まれた。

またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。

1944年、ピカソは若い画学生フランソワーズ・ジローと付き合い始めた。そしてクロードとパロマが生まれた。しかしフランソワーズはピカソの嗜虐趣味と浮気癖に耐えかね(註・彼女の主張による)、1953年に2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。

しかしピカソはすぐに次の愛人ジャクリーヌ・ロックを見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、これにはピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたといわれる。

当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが離婚すると、ピカソはすでにジャクリーヌと結婚していた。

このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言-私に何故と問い給うな-』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。

なおピカソの死後、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは自殺している。

只今、制作中(5)「自画像」「小椅子の聖母」「モワテシエ夫人」

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今日のご報告、只今制作中の状況です。

前回とあまり大きな変化はありません。

制作過程を見るには、書庫覧の「只今、制作中」を選んでいただくと見やすいです。
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