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クールベは中学生時代から好きな画家の一人、今日「ある画家の生涯、ギュスターヴ・クールベ」マリー・ルイーゼ・カシュニッツ著 鈴木芳子訳の本を読んでいて、備忘録にも残したい印象的な文章があった。

ジャン・デジレ・ギュスターヴ・クールベ
1818年6月10日フランス東部フランシュ・コンテ地方の小都市オルナンに生まれる。
1877年12月31日死去(享年58歳)

クールベはいかなる助言にも耳を貸さず、独学で絵を学びたかった。ひたすら練習し、ひたすら大家がどうやって成功したか、どうすれば彼自身にとって最上のものを描くことができるか見出そうとした。

自立したクールベは、毎日何時間も一般公開の小さなアカデミーで過ごした。毎月6フラン出せば、特に授業料を払わなくても、生身のモデルをデッサンし、描き、彫塑をすることができた。

日曜ごとに友人のボンバンと一緒にルーヴル美術館に足を運び、作品を鑑賞し、感嘆し、非難した。「ラファエロは才気を欠く。おもしろい肖像画もあるが、思想というものがまったく感じられない」「ヴェロネーゼはちょっとしたものだが、弱点もなければ、やりすぎもない画家だ」「レンブラントは利口者を魅了し、愚か者を打ちのめし茫然自失状態にする」等々。カラヴァッジョや他のボローニャ派の画家たちのテクニックを徹底的に研究した。

これらの偉大な、熱賛する数々の絵の前でクールベは何時間もすごし、線という線、色調という色調を脳裏に刻み込んだ。持ち前のなみはずれた勤勉さで模写を始め、いにしえの巨匠の作品のみならず、ジェリコーやドラクロワといった同時代の作品も習作用に選んだ。

クールベの芸術家魂の根っこはロマン主義にある。ロマン主義を脱却し、さらに成長するたねに、ひとまずロマン主義に帰依し、躍動感あふれる線や輝くような色彩を自作の最初の表現様式とせねばならなかった。

かくして時代好みに適う初期の作品が生まれた。素材にはジョルジョ・サンドのいわゆる情念小説「レリア」、ヴィクトル・ユーゴーの有名な詩から囚われの「オダリスク」ロマン主義的粉飾をほどこした旧約聖書から「ロトとその娘たち」「ファウスト」から「ヴァルプルギスの夜」が選ばれた。

クールベは文学には関心がなく、一度も見たことのない人物に説得力ある生命を吹き込むだけの空想力が欠けていたので、これらの絵は皮相な模倣でしかなかった。しかしながら彼が片意地な確信を持って、まもなく彼にふさわしい画法を見出すと、アトリエの同僚たちは、何やら感動をもたらす独特なものとしてのその画法をまねた。

クールベは大きな板に油を染み込ませた灰色の厚紙を張って描いた。彼の回りには大きな絵の具箱、安価な絵の具の容器が散らばり、何よりもお気に入りの道具はパレットナイフだった。

パレットナイフでじかにパレット上のどろどろした絵の具を混ぜ、カンバスに平塗りし、配置し、暗色の表面を細心の注意を払いながら削り取り、より明るい色に変えた。ワイルドな黒髪が顔の回りを額縁のように囲む長身でやせ形のクールベはイーゼルの前に立ち、何日も休むことなく、何かに憑かれたように描き続けた。

手先の天才的な器用さから、ほどなく大家たちのテクニック上の妙技を易々と意のままにできるようになったが、満足できなかった。当時のいかなる流派も、彼を表現へと駆り立てる不屈のゆるぎない意志を満足させることはできないと知った。

焦燥感を募らせながら、いつ訪れるとも知れぬ一念発起の瞬間、他ならぬ自分自身に対する決意と誓いの瞬間を待った。