1928年、その後長きにわたって彼女のパトロンとなる、ラウル・クフナー男爵がタマラを訪問する。目的は、愛人の肖像画を描いてもらうためだった。タマラは肖像画を描きあげ、後にモデルとなった愛人に代わって、男爵の愛人となる。
1929年、彼女は最初のアメリカ旅行をする。ルーファス・ブッシュに依頼された肖像画を描くためと、ピッツバーグのカーネギー美術館での個展開催のためである。個展は成功したものの、金銭的には失敗した。彼女が預金していた銀行が、1929年の株価暴落の余波を受け、倒産してしまったからである。
続く10年間、世界中が恐慌に苦しむことになるが、最初の痛手を除けば、タマラはほとんどその影響を受けなかったようだ。絵画の制作に追われ、忙しい日々を送った。たとえば、1930年代初期、彼女はスペイン王アルフォンソ13世やギリシア王妃エリサヴェトの肖像画を描いている。博物館はタマラの作品を収集しはじめた。
1933年には、ジョージア・オキーフ、サンチャゴ・マルティネス・デルガード、ウィレム・デ・クーニングらとの仕事でシカゴに赴く。同じ年、タマラはクフナー男爵と正式に結婚し(その前年男爵の妻が亡くなったので)、「男爵夫人」という社会的地位も手に入れた。
男爵は彼女をボヘミアン風の生活から、元の上流階級に復帰させてくれたわけである。タマラは男爵が東欧に持っていた所有財を早急に売り払い、その金をスイスに移すよう急かした。
同時代人の中でも、かなり早い時期から、第二次世界大戦の到来を見越していたのだ。その読みはほとんど現実のものとなった。彼女の絵画の中には、貴族や冷たい裸体に混じって、難民、一般人、さらには聖人も描かれるようになった。
1939年夏から、タマラと男爵は、アメリカ合衆国で「長期休暇」を始めた。彼女はただちにニューヨークで個展を開いた。男爵および男爵夫人が住まいに選んだのは、カリフォルニア州のビバリーヒルズで、ハリウッドの映画監督キング・ヴィダーの家の向かいだった。
彼女は「筆を持つ男爵夫人」となり、ハリウッドスターのお気に入りの芸術家になった。ガルボのような仕草を身につけ、タイロン・パワー、ウォルター・ピジョン、ジョージ・サンダースといったスターたちのセットを訪問し、反対に仕事場を訪問されたりした。
当時多くの人がやったように、戦争救済事業にも参加した。1941年にはナチ占領下のパリにいた娘キゼットをリスボン経由で救い出した。この時期の彼女の作品のいくつかは、サルバドール・ダリを思わせる。
たとえば、『鍵と手』(1941年)などである。1943年、夫婦はニューヨークに居を移す。スタイリッシュな生き方、社会活動は続けたが、この頃には画家としての名声はもはや失われていた。
彼らは上流階級向けの温泉に泊まるため、頻繁にヨーロッパに旅行したが、男爵がハンガリーの難民の世話をしている間、タマラは新しい作風を模索し続けた。描く対象を広げようと、静物画から抽象画まで手を出した。
筆の代わりにパレット・ナイフを使ったりもした。1962年にイオラス画廊で新作を出展したが、好評は得られなかった。タマラは二度と作品を発表しないと決め、プロ画家を引退した。
しかし、絵を描くことは続け、時々旧作を新しいスタイルで描き直したりした。たとえば、くっきりと濃淡つけて描かれた『アメジスト』(1946年)は、全体が淡いピンク色で、輪郭がぼんやりした『ギターを弾く少女』(1963年)になった。
1962年にクフナー男爵が心臓発作で死ぬと、彼女は所持品を売り払い、船で3度の世界一週旅行をした。それからキゼットとその家族(キゼットの夫はハロルド・フォックスホールという人物で、ダウ・ケミカル社の地質学者の主任。夫婦には二人の娘がいた)の住む、テキサス州ヒューストンに移り住む。
そこでしばらく経った頃、彼女は厄介で無愛想なふるまいを取り出す。キゼットはタマラの経営管理者兼秘書、さらには雑用をさせられることになり、タマラの支配と短気なふるまいに苦しめられる。
一方、タマラはタマラで、「古き時代」は絵の具などの画材が粗悪だっただの、1970年代の人間は才能と「育ち」が欠如していて自分の芸術がわからないだの、不平をこぼしまくったが、全盛期の筆力と技巧を二度と取り戻すことはできなかった。
1978年、タマラはメキシコのクエルナバカに移住する。年老いた世界中の仲間と少数の若い貴族に囲まれて暮らすためだった。キゼットは夫を癌で失った後、母親の元に行き、1980年3月1日、タマラが永眠するまでの3ヶ月間、付き添った。
タマラの遺灰は、ジョヴァンニ・アグスタ伯爵によって、ポポカテペトル山に撒かれた。
タマラは充分長生きした。彼女が死ぬ前に、流行の推移はすっかり一巡していたのだ。若い世代がタマラの芸術を再発見し、熱烈に支持した。1973年の回顧展も大好評だった。
彼女が死んだ時には、彼女の初期のアール・デコ絵画が続々と展示・販売された。彼女の人生にヒントを得た芝居(『タマラ』)はロサンゼルスで2年間ロングランされ(1984年 - 1986年)、その直後、ニューヨークのセヴンス・レジメント・アーモリーでも公演された[8]。
ジャック・ニコルソンはタマラの作品をコレクションしている。2005年には、女優兼アーティストのカーラ・ウィルソンが、タマラの生涯に基づく一人芝居「Deco Diva」を演じた。
ポップ・シンガーのマドンナもタマラの大ファンで、彼女の作品を集めていて、イベントや博物館に貸し出したこともあるくらいだ。さらに、『エクスプレス・ユアセルフ』、『Open Your Heart』、『ヴォーグ』のミュージック・ヴィデオで、タマラ・ド・レンピッカを不滅のものにした。