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今日紹介する内容も購入した洋書からの写真です。

洋書の面白さは、日本の出版物ととらえ方が異なったり、作品の掲載が日本の出版画集で見らない作品に出会えることです。

ダリの絵は皆さんご存じの方が多いですが、彼の初期の作品は珍しいのではないでしょうか。

絵画作品の自画像はゴッホ的だし、その後も彼のスタイルが確立するまでは、いろいろ手法を取り入れている様子が分かります。

―――以下ダリの紹介文です。―――

ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで、裕福な公証人の息子として生まれた。母親も富裕な商家出身だった。

1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開く。

1927年、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンらの面識を得る。

1929年夏、詩人ポール・エリュアールが家族とともにカダケスのダリを訪ねる。その妻が、後にダリ夫人となるガラ・エリュアールであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、1932年に結婚した

画学生時代には印象派やキュビスムの影響を受けていたダリは、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。

ダリは1938年にグループから除名されているが、その理由は彼の「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからとされる。しかし彼の人気は非常に高かったため、そのあとも国際シュールレアリスム展などには必ず招待された。

ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような超現実的世界を描いた。

第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、またマネージャーでもあった。

第二次世界大戦中は戦禍を避けてアメリカ合衆国に住んだが、1948年にスペインに帰国。ポルト・リガトに居を定めて制作活動を行った。

1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落胆し、ジローナのプボル城に引きこもった。最後に絵を描いたのは1983年5月である。

1989年にフィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で、心不全により85歳の生涯を閉じた。