泰西名画模写画とオリジナル絵画、コレクションの作品紹介

10年以上続けてきたヤフーブログから移行してきました。 画家になりたいという、若い頃からの夢をかなえたくて、独学で模写から勉強しています。 また、好きな人物画を主に、有名無名を問わず気に入った絵画収集にも努めています。 他にも日々お出かけの日常などを紹介しています。

アトリエの画家

ミーミーランのアトリエ

そういえば、ここ新天地に移住してからのミーミーランのアトリエを紹介してませんでした。

画家の聖地と言えば聞えが良いですが、以前のアトリエが6畳あったのに比べ、今はわずか4畳半の狭いアトリエ。

ご覧のあり様です。

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思うに、今から40年ほど前この地の近くで、4畳半の貸し部屋に下宿していた貧困な青春時代を思い出してしまいます。

2階の4畳半一間の家賃が月七千円、月給二万四千円程で、画材屋に勤めながら週に何日か夜間の美術専門学校へ行っていました。

金もなく、成績もさほど自信がないので美校行きは諦め、志がなく安月給の画材屋は辞め、レジスターのセールスマンに転職・・・・・?????

今になって、ようやく理想の画家業にも専念できる環境に成りました。

気分は至ってレオナルド・ダ・ビンチ???。

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いいや、レオナルド・ダミー・ミーミーランです。

この関連記事は昨年の10月に記事にあります。

ご興味があればこちらまで。

アトリエの画家

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アトリエと言えば「画家の聖域」とよく表現され、めったに他人に見せない画家もいる。

その理由の一つが、絵の技法を盗まれたくない。今何を描いているのか知られたくない。

こんな事のようだが、ミーミーランのアトリエもまだ紹介しておりませんでしたね。

いずれ有名になって、広い立派なアトリエが持てたら紹介しようかなと思っていたのですが、
なかなか叶いませんので、ここでお披露目。

私が勝手に呼んでいるアトリエなんですが、ここに住むようになって、丸4年が経ちました。6畳二間のふすまを取った12畳の広さです。

この部屋は、今朝まで蘭の鉢植えが2つの棚に並んで、南の窓辺を占領してました。今日の午前、外気も温かくなってきたので、外の入口階段前へ蘭の鉢植えを全部移動、少し広くなりました。

昨日から「リッタの聖母子」を描いております。

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もう一方の西側は、先回描いた「モナ・リザ」などの絵や描きかけのキャンバスが散らかっています。
ここは、食事をする場所でもあり、テレビを見ながらお酒を飲む場所でもあります。

女性の絵に囲まれて、無口なホステスさん達相手に、幸せなミーミーランが夜には焼酎かビール片手にソファーに居ます。

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アトリエには、各人の個性を目にすることができます。パレットの上の絵具の置き方、使い方、絵具の絞り方などに画家の個性を垣間見ることが出来、楽しいものです。

さて、あなたはこのアトリエに何を発見したのでしょうか?

アトリエの画家(8)

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先だってワイエス展を愛知県美術館へ見に行って、同時に常設展の会場でポール・デルヴォーの代表作「こだま」を鑑賞することになり、再び関心を持ちました。

彼の絵はもともと興味があり、画集も買って本箱にしまってあったもですが、本物の絵に触れる機会があり、改めて画集を見直しました。

今日は本人の写真と経歴だけを記事にします。

ポール・デルヴォー(Paul Delvaux、1897年9月23日 - 1994年7月20日)は、ベルギー・リエージュ生まれの画家。

1897年ベルギーのアンテイトに生まれる。ブリュッセルの王立美術アカデミーで建築を学ぶがやがて断念し、絵画に転向する。

1934年ブリュッセルで開催された「ミノトール展」で見たキリコやマグリットの作品に強い感銘を受け、デルヴォーの画風はそれまでの表現主義的なものからシュルレアリスム的な傾向のものに変化する。

1937年「ミノトール」誌10号に紹介される。1938年パリのシュルレアリスム国際展に出品。以後、シュルレアリスム運動には直接加わらなかったが、多くのシュルレアリスム展に出品する。

 デルヴォーの絵には、不思議な遠近法をともなった古代都市や室内に、骸骨や理想化された無表情の裸婦などが配置され、幻想的な雰囲気の中で無言劇がくりひろげられています。

1994年ヴュルネで没す。

アトリエの画家(7)

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アトリエの画家(7)は熊谷守一の世界「独楽」(写真家 藤森武著)より

画室には普段から交遊のある人でも、簡単には入れてもらえない。奥さんですら、画室の物を
動かすことは勝手にはできない、という。

画室は洋画家の工房とか画質というよりも、むしろ、村の鍛冶屋の仕事場のようである。

画室に入っても何も描けないときは、これらを使ってものを修繕したり、こしらえたりして、
「絵なんか描くよりよっぽどおもしろい」とおっしゃる。

ひとたび画架の前に座ると、まず固唾をのみ、次の瞬間からは、指揮者にひきいられた楽団員
のごとく、実に清らかな、温かな序曲を奏でる。やがて、先生と道具達との間でおもむろに
湧きだされる興趣、悠々たる心のひろがりはオーケストラと化し、何とも言いがたい魅力的な
光景に見えてくるから不思議である。

先生は、画室に行く時、毎日同じ時間に画室に入られるので、「学校へ行く」という。
しかしこの学校の時間表は図画工作だけである。ましてや先生の冬休みともなると、12月から
5月までと途方もない長さで、まるで冬眠でもしているかのようである。

あとの半年間、先生は夜の9時から画室に入られる。1時間ほどの夜学である。

アトリエの画家(6)

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画集アンドリュー・ワイエス「画家の居る場所」スナップ

「ワイエスを訪ね直接聞くことが出来た」彼の言葉より引用

病弱だった子供のころ半日を家庭教師に就き、半日を父のアトリエで過ごしました。父は、「芸術家は、技術をはやく身につければ、それだけはやく一人前になる。有名な画家でカレッジに通ったものはいないよ。」と言うのが口癖でした。カレッジで学んでいたら、どうなっていたでしょう。きっと時間を無駄にしていたでしょう。

まず、ペンとインクでたくさんの素描を描くことで、対象のもっている質感を出すことを学びました。そして水彩で思うままに描けるまでになりました。

マクベス画廊での個展は、即日完売で、批評家にも好評でしたが、(ワイエス20歳の時)私は自分の水彩を見て、何か物足りないものを感じていました。そこでデッサンの初歩からやり直すことにしました。

父は熱心にアンドリューを指導した。そしてある日もう十分だと知ると、「これからは見たものを描くのでなく、そこからつかんだ記憶を頼りに描くように」と言った。

目に見えるものを見えるままに描く技術に努めていたワイエスは、対象をそっくりに描くだけでは、そのものが引き起こす感動を画面に表現できないことに気づく。記憶となった現実を描くためには彼自身の新たな技法が必要になった。

ちょうどそのころ、義兄のピーター・ハードから習ったテンペラが、まさにワイエスの探していた技法だった。一筆一筆、織物を織るように色を重ねていくテンペラは、作品を仕上げるのに長い時間がかかる。ワイエスは、その根気のいる作業の過程で、彼のモチーフを深めていった。

絵を描くきっかけは、胸がいっぱいになったときに生まれます。それはほんの一瞬の出来事です。ここに「恋人たち」があります。これはヘルガに頼んでポーズを取ってもらっていたときに、少し疲れたので休憩することにしました。そのとき木の葉が吹き込んできたのです。一瞬のことでした。それを私は、何か月もかかって描きました。

ワイエスが同じ主題を繰り返し描くのは、より多く知れば、それだけよく描けるからだという。

新鮮な感動をもたらすような出会いは、なかなかありません。見慣れたものからも発見はできます。自分がよく知っているものに立ち返ることで、そこに新しい感情を見出すのです。

ワイエスは、心の奥深い部分の感情が動かされて初めて制作にとりかかる。見る者は、その感情に知らず知らずのうちにとらえられ、とりこになっていく。

今までずっと見てきたこの丘を描くとき、そこにいろいろなものを込めて描きます。今までの人生のすべて、そして愛をね。大切なのは、対象にたいする私の感動です。

また制作中の自分を見せないことでも有名だ。制作は、非常に個人的なことです。私のしていることにあまりかまわれたくありません。完全に自由でいたいと思います。注文された作品を描くのは苦痛です。幸い描きたいものだけ描いて生活できますので、注文は受けないのです。

私が打ち込んできたものはリアリズムだと思います。でも自分を写実主義の画家だと思ったことはありません。つまり、描く対象は具体的なものですが、写実的には描いたことはないということです。

突然、ワイエスは、「恋人たち」を逆さにしてみせると、茶目っけたっぷりな笑顔で言ったどうです。いい絵でしょう。よい作品は、どれもみな抽象的な性質をもっています。作品が優れていれば、上下逆さまでも見るに耐えます。

ワイエスにとって、抽象と具象という分け方が、すでに古い固定観念のようである。
どうして両面あったらいけないのでしょうか。最も保守的なものが、最もラジカルなのです。将来、まだ私に力が残されていたなら、興味深いものができるでしょう。それは具象的であり、しかも抽象的なものになるはずです。

アトリエの画家(5)

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画家宮本三郎を知ったのは、1970年頃で、私が19歳の頃、二紀会の展示会場でだった。

翌年の二紀会での展示作品「二人」はアダムとイブが禁断の実を食べ、エデンの園を追われる旧約聖書の物語。モデルは日本人のようだが、その裸像の立体感と色彩に目を奪われ、宮本の大ファンになってしまった。

その後随分年月が経って、この感動的な絵を模写しました。
(関連記事は http://blogs.yahoo.co.jp/atoriemimiran/34196419.html )

この時期から彼が亡くなるまでの晩年の作品が好きです。

今日は「アトリエの画家」シリーズで彼のアトリエでの光景をおさめたスナップを紹介いたします。

特に有名女優さんとの交流も深く、作品に登場します。女優さんを前に嬉しそうな宮本画伯の表情が愉快です。

アトリエの画家(4)

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バルテュスの本名はバルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ。1908年ポーランドの伯爵家の次男としてパリに生まれる。

イタリア、ルネサンスの巨匠ピエロ・デラ・フランチェスカに衝撃を受けて画家になることを決意する。

「夢見るテレーズ」や「コメルス・サン・タンドレー」で脚光を浴び、少女、猫、鏡などのモチーフを多く描き、不思議な静けさと緊張感のある独自の絵画世界を確立した。

東洋への造詣が深く、アンドレー・マルロー文化大臣にフランスのアカデミー館長に任命され、京都への出張の際、当時20歳の出田節子さんと出会い、結婚。完璧主義で長い時間かけて制作をしたため作品数は多くないが日本にもファンは多い。

「一方で伝統的な写実絵画のクールベにならいながら、シュルレアルズムを目指した」とバステュスは言う。

その言葉通り、彼には写実的な風景画や静物画も数多い。だがバルテッス・ファンを魅了し、しびれさせるのは、危ない恍惚感に誘いこむ幻想の少女像だ。

例えば童女の幼児エロス的場面を描いた「ギター・レッスン」は余りにも有名。

作品の解説には http:/www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0984.html にくわしい内容が紹介されています。

アトリエの画家(3)

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「画家のアトリエ」シリーズで今日は、皆さんご存じのパブロ・ピカソ(Pablo Piicasso)を取り上げてみます。

撮影はディビィット・ダグラス・ダンカンでピカソに関する写真集は4冊もある。

ダンカンは、国際的に著名なフォトジャーナリストで、多くの賞を受賞している。

ピカソもまた彼の撮影を信頼し、日常生活を自然なスタイルで過ごし、ダンカンの目が人間ピカソを客観的に、彼の人間味をカッチリ捉えているところが面白い。

20世紀最大の画家としての威厳ではなく、ごくごく自然な人間ピカソをおさめた写真集として、ピカソにより親しみを覚えます。

たまたま手に入れたピカソ生誕100年を記念し出版された「Viva Picasso」より私が選んだ、ピカソの写真をご覧ください。

アトリエの画家(2)

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画家の聖域「アトリエの画家シリーズ」第2弾として、ジョアン・ミロ(Joan Miro)をとりあげます。

何か記号のような形や線で表現された、幼児的な絵画だが、そこに込めた表現からは、何か詩的にも、あるいは宇宙からのメッセージとも受け止められるような、独特の絵画で、一度見たら忘れられない、強い個性です。

スペイン人で1893年生まれ、その生涯は、波瀾もあったが、90歳で亡くなるまで、あの純粋な子供のような表情には、見習いたいところがある。


ーーージョアン・ミロの解説ーーー


ジョアン・ミロ(Joan Miró, 1893年4月20日 - 1983年12月25日)は20世紀のスペインの画家。カタルーニャ地方出身である。

ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことから、シュルレアリストに分類されるのが通例だが、彼の描く人物、鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり、20世紀美術に独自の地位を築いている。

ミロの作風は同じシュルレアリストでもマグリットやダリらの古典的・写実的描写法とは全く異なる自由奔放なものであるが、ブルトンは、こうしたミロの絵画こそが真のシュルレアリスムであるとして共鳴し、ミロはシュルレアリストのグループに迎え入れられることとなった。

ミロは「画家」という肩書きにこだわって狭い世界に閉じこもることを嫌い、パリでは作家のヘミングウェイやヘンリー・ミラーなどとも交流があった。

1930年代からはバルセロナ、パリ、マリョルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マリョルカにアトリエを持ち制作した。

1944年からは陶器や彫刻の制作を始め、作品の幅を広げていく。

1956年にはパルマに大規模なアトリエを造り、作品の規模も大きくなっていく。また、このアトリエでは絵画以外の分野の職人との共同制作を行い、陶器、壁画、彫刻などを次々と生み出した。

晩年にはコンクリート製の大型彫刻や壁画などのパブリック・アートの大作を数多く残している。

1970年には大阪万国博覧会のガス館に陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため来日した。

1983年、アトリエのあるパルマで死去した。

アトリエの画家(1)

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アトリエは、画家の聖域と他人はよく言います。

特に、独特の画法とか展覧会未発表の絵は、有名画家の場合、事前に見られてあれこれ批判されたり、発表前に報道されるのを嫌い、アトリエへは入れない主義の画家が多くいます。

先に紹介した(http://blogs.yahoo.co.jp/atoriemimiran/35840288.html)藤田嗣治もその典型で、彼自身が考案した乳白色の地肌の作り方や墨を使った技法を他人に知られることを嫌い、訪問者があるとキャンバスをシーツで覆い隠していたという話は有名である。

それ故にか、他人は画家のアトリエには、少なからず興味を持つし、画家とモデルとの関係は?とまで詮索したくなる。綺麗で若い女性モデルを使えば、奥型のやきもちも生まれてくることも然りだ。

従って、土門拳が藤田のアトリエで撮影した写真は、貴重なものであり、藤田も土門の撮影の腕をかって、しかも同業でないカメラマンを信頼していたから撮影させたのだろう。


こんな経緯から今春、書店で偶然見つけ、手に入れた洋書で美術画集ルシアン・フロイド(Lucian Freud)の
アトリエ風景及び彼の絵画を紹介いたします。

ーーーーー「西洋絵画の読み方2」(ジョン・トンプソン著)によるとーーーーー

「ルシアン・フロイドは1922年にベルリンに生まれた。彼は精神分析学の開祖ジークムント・フロイトの孫である。一家は1933年にロンドンに移った。

フロイトはデダムのイーストアングリア絵画素描学校で、画家のセドリック・モリスに学び、その後ゴールド・スミス・カレッジに移った。」とある。


今日アップした、アトリエで制作中の写真を見てお解りのように、近年の彼の絵画は、裸体人物画が多く、しかも性器をまるまる描いたものがほとんどで、写真掲載に支障があると思い、写真をペイント塗りで隠したが、何だかおかしいので、画集からの写真そのものをスキャンアップしました。
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