泰西名画模写画とオリジナル絵画、コレクションの作品紹介

10年以上続けてきたヤフーブログから移行してきました。 画家になりたいという、若い頃からの夢をかなえたくて、独学で模写から勉強しています。 また、好きな人物画を主に、有名無名を問わず気に入った絵画収集にも努めています。 他にも日々お出かけの日常などを紹介しています。

好きな画家たち

板谷房画伯

突然ですが、今朝の夢の話です。

板谷房という画家をご存知でしょうか?

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たまたまですが、夢に出てきました。そして「私の絵を模写しても良いよ」と許可が出た夢です。

板谷房画伯の一言がその後の私の人生の希望にもなりましたし、大きな影響力のあったお人です。

詳しくはこちらのブログ記事をご覧ください。


インターネットの世界は摩訶不思議な世界で、何と画家の甥っ子さんからコメントも頂戴しました。

そして今日改めてネットで検索していたら、1971年に亡くなられていたことを知り、私がお目にかかったのは1968年、画家が45歳の時でしたから、その余りにも短かった画家生命に無念さを憶えました。

今朝、改めて当時の画集を持ち出し、何を模写するか探してみたところ、わずかなカラー写真の画集の中から、これを描くことに決めました。

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クリムト

クリムトを見てきた影響で、書棚から古い雑誌を取り出してみた。

今は既に廃刊のようですが、1992年6月刊行の「MON ART」クリムトの生涯を紹介している。

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私は、弟子のエゴン・シーレは好きですが、風貌的にクリムトは助平そうでおぞましい画家だったのです。

ところが、最近私の頭髪もクリムトに似た形に進行中。チョット親しみを覚えて、助平そうなところがきっと似てるから、好きな画家たちに加えましょう。

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クリムトのミューズ、モデルとしてもよく登場するエミーリエ・フレーゲ

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ウィーン大学大講堂の天井画「法学」

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「ユディト」 オーストリア美術館蔵

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誰しもが知っている「接吻」 オーストリア美術館蔵

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磯江毅

今日午前のEテレ「日曜美術館」で磯江毅を放映していました。(来週日曜日の午後8時から再放送)

美術好きの皆様の中には、ご覧になられた方々も多いことと思います。

磯江画伯のことは写実画家として一目置いていて、記憶にはあったのですが、3年ほど前に書店でこの画集に出会い購入し正確な情報を得て、つくずくすごい画家だな~と思いを募らせていました。

2007年53歳の若さで亡くなられてことは残念なことですが、精いっぱい写実画に精進され、独自の世界を絵画に導き出された素晴らしい画家でしたね。

画集からのスキャンですが、ここに掲載いたします。

画集「磯江毅/写実考」 2009年 美術出版社発行

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1993年ころのご本人

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1976年デューラーの模写画2作

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1979年ウェイデンの模写画「聖母子」

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1993~4年「新聞紙の上の裸婦」

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1980~1年「横たわる裸婦」

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1983年「シーツの上の裸婦」

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2006~7年「バニータスⅡ」

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ピカソ 家族の肖像

昨日ブログ記事にしたピカソの父、ホセ・ルイス・ブラスコは、長身痩躯の色白で、その風貌や好みのために友人からは「イギリス人」と呼ばれていた。

母マリア・ピカソ・ロベスはホセとは対照的に、小柄で黒い瞳、浅黒い肌という典型的なアンダルシア人の容貌をしており、パブロにもそれは受け継がれた。

母のスケッチ 1895、1896年(ピカソ14、15歳頃)
下の絵に書かれた文字Mi primer intento de acuarela(ぼくの初めての水彩の試み)と読める。

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母の肖像が父や妹に比べて少ないのは、家事で忙しくてポーズをとる暇がなかったためだと思われる。
バルセロナ・ピカソ美術館が所蔵する膨大なデッサンの大部分は、母が大切に保存しておいたものである。

ピカソの三つ年下の妹ローラもお気に入りの、また日常的にポーズしてくれる唯一の若い女性モデルだった。

<文面は執筆者大高保二郎氏のまま掲載しております。>

人形を持って座るローラ  1895年(ピカソ 14歳)

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画家の妹ローラの2点の習作 1897年頃

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画家の妹ローラ 1898年

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画家の妹ローラ 1899年

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画家の妹ローラほかのスケッチ 1900年

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ピカソ 父の肖像

まわりにいる人やものをなんであれスケッチするのが、ピカソの幼い時からの習慣だった。

画家で美術教師だった父、ホセ・ルイス・ブラスコはピカソにとっても最初の絵画の師であった。自分をはるかに凌ぐ才能を息子パブロに見出した彼は、パブロを画家としての将来の為にさまざまな手を尽くし、また、自ら忍耐強く写生のモデルをつとめた。

1895.1896年 ピカソ15歳の頃の父のデッサン

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ほとんど青一色の水彩によって描かれ、濃い背景から細長い横顔の輪郭が白く鮮やかに浮かび上がってくる。
1896年頃の父の肖像作品3点

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1899年頃(ピカソ18歳頃)の父のデッサン

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文面は執筆者大高保二郎氏のまま掲載しております。

ピカソの自画像

一昨日のピカソのつづきです。

美術史上、自画像の画家としてレンブラントやゴッホが思い浮かびますが、実はピカソも数多くの自画像を残しています。

ピカソ自身「私は日記のように絵を描く」と語る。その意味で自画像は、もっとも内密にして素直な心情を告白しているようで興味を引く。

15歳の自画像の優作は将来への漠たる不安とともに、そんな屈折した心理が投影されている。
「ぼさぼさ頭の自画像」とも呼ばれるこの絵のピカソは14、15歳。少年のころは痩せていたにしても、ほかの自画像よりかなり面長に描かれている。

不安に満ちたところか気弱な表情も、見慣れたピカソのものとは違うように感じる。

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1899年から翌年にかけて、深い悲しみの気配と暗い色がピカソの画面を覆うようになる。
木炭で描かれたモノクロームの自画像。

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1901年(20歳)の作品、青年期のピカソの自画像はいつも実年齢より大人びてみえる。
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カリカチュア風自画像(1903年作)
いたずら者の猿が、画家の持ち物であるペンと絵筆を左右の耳にはさみ、なにかたくらんでいるようだ。
悪意やずる賢さ、機知や風刺精神に満ちたピカソの一面がここでは猿に重ね合わされている。
多面的な自我を持ち、それを変幻自在のスタイルで表現できる才能こそ、近代芸術家のなかでもピカソが最も際立つオリジナルな点であろう。

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文面は執筆者大高保二郎氏のまま掲載しております。

ピカソ

最近、デッサン会やクロッキー会に参加する機会を得た私ですが、明日も午後からのデッサン会に参加しようかと思っています。

ところで、20世紀最大の天才画家と称されるピカソ。彼の少年時代から美術学校で描いていた基礎学習であるデッサンの出来栄えは凄いですよね。

今日の午後、初めて豊橋中央図書館へ行き、気に入った本を借りてきました。その中の1冊に興味ある内容があります。

タイトルは「ピカソ 天才の誕生」2002年9月21日~12月8日の間、上野の森美術館で開催されたバルセロナ・ピカソ美術館展の展示紹介本です。

3年前にも「好きな画家たち」で取り上げましたピカソ、その時の記事はこちらです。
http://blogs.yahoo.co.jp/atoriemimiran/36056254.html

ピカソは1881年10月25日に誕生、ピカソ(8歳)と妹のローラ(4歳)の写真です。

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パリ定住間もない頃のピカソ 1904年、リカルド・カナルス撮影。

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ピカソ9歳の時のデッサン、1890年11月「ヘラクレス」

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ピカソ11歳の時のデッサン、1892年、石膏トルソの習作(ベルヴェデーレのトルソ)

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美術学校上級クラスの時のデッサン、1896年1月17日、裸体の写生習作(木炭、コンテ鉛筆)

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1896年、裸体の写生習作(黒鉛筆)

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1895~1896年、裸体の写生習作(グラファイト鉛筆、コンテ鉛筆、ペン)

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1895~1986年、5点の手の習作(コンテ鉛筆)

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1895~1896年、雑多なスケッチ(水彩、セピア淡彩)

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1895年、老人の肖像(油彩)

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1985年、裸足の少女(油彩)

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岡田三郎助

昨日の日経新聞の記事の「岡田三郎助」を読んで、改めて私は彼の絵に興味を抱いていたことを思い出しました。

有名な「あやめの衣」をはじめ沢山の写実人物像を描いた岡田三郎助ですが、新聞記事を読んでいて興味ある人柄に出くわすが、画家の顔が思い出せません。

インターネットで検索の結果若き頃と晩年の写真が見つかりました。

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「支那絹の前」1920年帝展に出品したこの作品制作に、岡田は精魂込めて臨んだはずだ。しかしモデルを務めた画家の妻はこの絵のことに言及し、「主人はわたしをかくのが目的ではなくて、着物をかくのが目的なのです」こんな不満げな言葉を残したという。

モデルの八千代夫人のあまりうれしくなさそうな表情、その後二人の不仲が高じて、八千代夫人は家を出てしまったそうだ。

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これとは対照的に「あやめの衣」は一度見たら忘れられない素敵な絵です。
1927年作、新聞記事によるとこのモデルの女性は、銀座の裏通りの店のマダムだったそうだ。

「マダムのその堂々たる体躯は祖父がオランダ人であり、外国人の血の面影があるからでしょう。店を気に入って通ううちに、マダムは当時画壇の長老、岡田三郎助のモデルを、数年にわたってつとめたことを告白した。

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やはりこのマダムをモデルに描いたであろう作品を、地元のメナード美術館で2作品見たことがある。

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人物評として師匠の黒田清輝は、岡田の特色は「形よりも色に於いて勝るれて居る」と評した。岡田君は初めからこういう絵を描くこうと考えて掛かり、そしてそういう画になると、黒田は言っている。

そして岡田君は面倒臭いということを知らないとも評している。そういう緻密な絵であり、注意深く見なければその良さがわからない絵である。

また彼自身の言葉では、こうも語っている。

「油絵の本質は、どこまでもどこまでも突っ込んで行くところにある。体力のすべてを動員し、研究のすべてを尽し、修正に修正を重ねて完璧なものにするのが油絵である。そしてそれがためには断じて中途で挫折することにない強烈な意欲が必要なのである。」

「油絵の筆触には、油絵の具を充分伸ばすだけの腕力」そして「腕力よりも一層腰の力が大事だ」

「残るものは絵だけだよ。絵かきはそれで能(よ)いのだよ」

伊藤若冲

今、BSプレミアムの「極上美の饗宴 伊藤若冲・秘蔵のコレクション公開」という番組を見ています。

何とも興味を引く話題、

千枚とも言われる模写の日々。やがて、若冲は「絵から学ぶだけでは絵を越えることができない」と思い至り、目の前の対象(実物)を描くことで真の姿を表現しようとした。生き物の内側に「神気」(神の気)が潜んでいると考えていた若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始める。だが、すぐには写生をせず、鶏の生態をひたすら観察し続けた。朝から晩まで徹底的に見つめる。そして一年が経ち見尽くしたと思った時、ついに「神気」を捉え、おのずと絵筆が動き出したという。鶏の写生は2年以上も続き、その結果、若冲は鶏だけでなく、草木や岩にまで「神気」が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになった。

こんな熱意、情熱ある画家に対し私の模写などまだまだ、50点そこそこで満足していては駄目ですね。

がんばれミーミーラン!

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本物を描くには、本物以上に描かねば勝てない。

鴨居玲Ⅳ

日経新聞「美の美」鴨居玲の分身たち最後の編は1982年制作の大きな絵(181.6cm×259cm)「私」

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1984年作「出を待つ(道化師)」

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最晩年の1985年作「肖像」

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私が最も魅かれる絵の一枚です。
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