フジタ随想のつづきです。

自己顕示欲は、いやしくも一人前の芸術家であれば誰しものことで、あえて藤田のみ異とするに足るまい。

藤田が奇きょうなふるまいにおよんだのも、計算なしとはしない。「俺はピカソやマチスの絵は勉強しない。彼らがいかにして世に出ていったか、その方法を勉強するのだ」と云ったことがある。

といってもそういう計算に、藤田自身抵抗がなかったわけではなかったろう。「俺はいろんなことをやるけど、やるまでは気に病むんだ。テレくさいし、いやだと思うこともある。だけど、よしやろう、となったら胆がすわるんだ」とも云っていた。

一匹狼の芸術家が、世に出るためには、純粋な才能はむろんだが、彼自身の人間的魅力が必要であり、それをきっかけとタイミングに乗せて売り出さねばならぬ、ということも充分にこころえていたのである。

これを一口にいえば、今日的な意味において、藤田は「偉大なるタレント」でもあった、ということが出来るであろう。

偉大なタレントというものは、常に時流の第一線に乗っていなければならない。それを裏づけるには、かくとしたテクニックを持っていなければならない。藤田はその両方がそなわっていた。

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戦争画の問題にしても、藤田自身の戦争に対する主義主張よりも、戦争画を描くことがその時代の時流に乗ることだ、という本能的なカンの方が強かったのではなかろうか。

だから逆に敗戦になると、宮本三郎君のところに手紙をよこして「戦争画に関するドキュメントはすっかり焼いてしまえ、アメリカに知られるとひどい目にあうぞ」などという忠告をしたそうだ。そういう警戒心や保身術には、実に敏感であった。これが時流を見る目なのである。

藤田のような生き方は、今日であれば誰もあやしむに足りない。むしろ、タレント的な生き方をすることは、ある種の芸術家にとって欠くべからざる条件ですらあるようです。

いい意味においても「一億総タレント化」、芸術家のみならず、各個人がそれぞれに自分の才能に目いっぱいに活用して生きていくのが、現代である。

つまり、藤田の生き方は、日本においては、30年から50年早すぎたのである。

                           (原文のまま書き写しました)