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ええっ・・・こんな美人が画家?と思わず叫んでしまう。女優さんならわかるが・・・と言いだしたくなるような女流画家を紹介いたします。
20世紀前半を華麗にされど苦悩も沢山経験させられ、81歳の生涯は波乱にとんだストーリーで、今日と明日の2日に分けて記事にします。前半は彼女のポートレートを後半の写真は彼女の作品を紹介いたします。

<前半>

タマラ・ド・レンピッカ(Tamara de Lempicka, 1898年5月16日 - 1980年3月18日)はアール・デコの画家。ポーランドのワルシャワに生まれる。本名は、マリア・ゴルスカ(Maria Górska)[1]。ポーランド風の発音に倣いレンピツカとも表記される。

父はポーランド人弁護士、母マルヴィナ(旧姓デクラー)は上流階級出身という、裕福な家庭に生まれる。兄と妹がいる。スイス、ローザンヌの全寮制学校で学んでいた1911年の冬、祖母とともにイタリアとコート・ダジュールに旅行し、そこで、イタリアの巨匠たちの絵画に間近に接する。

1912年、両親が離婚すると、裕福な叔母ステファのいるロシアのサンクトペテルブルクに行く。母が再婚した時には、ずっとそこで暮らそうと決心した。1913年、15歳の時、オペラ観劇で見初めた男性に恋をする。

1916年、叔父のコネを利用して、その男性と結婚する。タデウシュ・ランピカという弁護士で、女たらしとして有名で、結婚したのも持参金が目当てだった。

1917年、ロシア革命が起き、タデウシュが真夜中にボリシェヴィキによって逮捕される。彼女は刑務所を捜し回り、数週間後、スウェーデン領事の助けを借りて、夫を釈放してもらう。

それから夫婦でデンマークのコペンハーゲン、イギリスのロンドンを転々とし、最後は、多くの白系ロシア人が逃げのびたフランスのパリに落ち着く

パリで、夫妻は持ってきた宝石を売りさばいて生活する。タデウシュには職を探す気がなく、暮らしは次第に苦しくなった。そんな中、1919年、娘キゼットが生まれる。家計を立て直すため、彼女は画家になる決意をする。

タマラ・ド・レンピッカという名前で、アカデミー・グラン・ショミエールに入り、モーリス・ドニ、アンドレ・ロートについて修行する。彼女には持って生まれた才能があったが、その上に、成功しなければという強い意志があったため、短期間で驚くほどの上達をする。

1923年には、主要なサロンに作品を出品するまでになり、スタイリッシュに服を身にまとい、スタジオを賃借し、車も購入、預金口座を開けるまでに稼いだ。ボヘミアン的な芸術家人生を謳歌し、さらにはパリの上流社会にまで上り詰めた。

彼女の個性的で大胆な作風は、(ロートのソフト・キュビスム、ドニの総合的キュビスムの影響を受け)さらに急速な進化を遂げ、アール・デコ運動の冷ややかな一面と官能的な一面を統合させる。

彼女について、ピカソは「統合された破壊の斬新さ」と語った[2] 。彼女は、印象派の画家の多くが下手に絵を描き、「汚い」色を使用していると考えていた。それに対して彼女のテクニックは、新鮮で、クリアで、正確で、エレガントだった。

1925年、エマニュエル・カステルバルコ伯爵の後援により、最初の個展がイタリアのミラノで催される。彼女はそのために新たに28作を半年で描きあげる[3]。まもなく彼女は、同時代人の中で最もファッショナブルな肖像画家となる。

公爵夫人、大公、名士たちを描き、一流のサロンで展示される。巨匠アングルを当時の感性でアレンジした『4人の裸婦のグループ』(1925年)では猛烈な批判を浴びたが、同時に「倒錯したアングルイズム」という称賛も受けた。

肖像画を書くにあたっては、気むずかしいモデルの対応を考慮に入れ、1枚につき3週間の時間を必要とした。1927から1928年、肖像画1枚5万フランだった(2000ドルに値するが、当時は現在の10倍の貨幣価値があったと思われる)[4]。カステルバルコ伯爵の紹介で、イタリアの偉大な文学者で悪名高きガブリエーレ・ダンヌンツィオと知り合う。

肖像画を描いて欲しいと請われ、ガルダ湖の彼の別荘を訪ねるが、実際は誘惑が目的だった。肖像画を描きあげ、苦々しい思いで別荘を後にしたが、絵にも情事にも彼女は満足できなかった。

1925年、彼女は自画像を描く。『オートポートレート(緑色のブガッティに乗るタマラ)』がそれで、ドイツのファッション雑誌『ダーメ』の表紙を飾った。

1927年、彼女は生まれてはじめて大きな賞を受賞する。フランスのボルドー国際美術賞の金賞で、受賞作品は『バルコニーのキゼット』だった。

狂騒の20年代、タマラ・ド・レンピッカはパリでボヘミアン的な人生を送っていた。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、アンドレ・ジッドとは知り合いだった。彼女の美貌、さらに彼女が両性愛者であることはよく知られていた。

男性とも女性とも関係を持つことは、当時においてはスキャンダラスで、騒がれた。しばしば彼女は、自画像の中にストーリー性を持たせ、ヌードのスケッチは挑発的効果を生み出した[6]。

1920年代、彼女は、ヴァイオレット・トレフーシス、ヴィタ・サックヴィル=ウェスト、コレットら、文壇・画壇のサークルに属したレズビアンおよび両性愛者たちと親しく交際した。さらに、ナイトクラブの歌手スージー・ソリドールと親密になり、後には彼女の肖像画も描いた[7]。

夫はそうした生活に疲れ、1927年に妻を捨て、翌1928年、正式に離婚した。

夫も悪いが彼女にも非はあった。仕事と交際に明け暮れていたのだから。彼女は娘のキゼットとも滅多に会わなかった。キゼットは(フランスやイギリスの)全寮制学校に入れられたが、家族といる時は、祖母のマルヴィナと過ごした。1

929年にもアメリカ旅行をし、タマラはクリスマスに母と娘の元に戻らなかった。マルヴィナは激怒し、タマラのデザイナー帽子を燃やし、ギゼラは帽子が1つ1つ灰になるのをじっと見ていた。

このようにキゼットは母親に顧みられなかったものの、母親の絵の中で不滅の名声を手に入れた。タマラはキゼットだけをモデルに子供の肖像画のシリーズを描き続けたのだ。

『ピンクの服を着たキゼット』(1926年)、『バルコニーのキゼット』(1927年)、『眠っているキゼット』(1934年)、『キゼット男爵夫人の肖像』(1954 - 1955年)、など。それ以外の絵でも、キゼットによく似た女性の肖像画がある。
                
                 ――――つづく――――